「彷書月刊」の頃 内堀弘
「彷書月刊」の頃
内堀 弘
あの頃は、どうしてあんなに時間があったのだろう。貧乏暇なしという通り、たしかに忙しかったのに、それでも時間は持てあますようにあった。
『彷書月刊』という書物雑誌を始めたのは一九八五年の秋だった。自游書院の若月さん、なないろ文庫の田村さん、それに私。皆、三十代。この三人の若い古本屋で小さな出版社を起ちあげた。神田猿楽町に事務所を借り、ランニングコストを捻出するために月刊誌を出そうとなった。そんな甘い考えに、誰一人疑問を挟まなかったのが、若さといえばそれまでだが、私たちはすぐに、月刊誌を出すだけで手一杯になった。その苦労が、それから二十五年も続いた。私たちは忍耐強かったのだろうか。いや、忍耐の使いどころを誤っただけかもしれないが、そのおかげで出会えたものはいくつもある。サッポロ堂の石原さんと過ごした多くの(そして豊かな)時間も、その一つだ。
雑誌は赤字を出し続けた。こんなものに付きあっても何の得もない。いや、うっかりすれば損をする。それでも、雑誌の周りに様々な繋がりが生まれた。山口昌男さんと坪内祐三さんは雑誌の中軸になってくれたし、大逆事件の山泉進さん、なないろ文庫のバイトだった浅生ハルミンさん、作家の小沢信男さん、テレビディレクターの河内紀さん、遊んでばかりの坂崎重盛さん、谷根千の森まゆみさん、この雑誌でデビューした(という負の歴史を隠さない)石田千さん。外側にこうした関係が拡がった。思えば、雑誌の利益とはこういうものかもしれない。サッポロ堂の石原さんは、この雑誌の創刊から終刊までずっと寄り添ってくれた。
サッポロ堂は、早くから「環オホーツク」をテーマとした魅力的な古書目録を発行していた。北海道は日本の枠で考えれば北方だけど、環オホーツクで見れば南方だ。その枠組みを古書で再現する。「つまりこういうことなのさ」と石原さんが身を乗り出して話し始めると、見慣れた古書は違った貌を見せはじめた。
晶文社の名物編集者だった中川六平さんが、「雑誌を成功させるには、二十四時間そのことを考えるんだよ」と言った。ふとしたことでも、あっこれ使える、これを繋げよう、そうやっていつもその雑誌のことを考えるんだ、そうすると面白くなる、というのだ。なるほど、石原さんもそうやって、古書目録を、サッポロ堂を、いつも編集しているようだった。
東京の大きな入札会に、石原さんは必ずやって来た。その晩は『彷書月刊』の事務所で合流して、遅くまで話した。何をそんなに話すことがあったのか。その合間に、石原さんは慌ただしくあちこちに電話をかけた。「今度またウチから新刊を出すのさ」という人がいたり、「資料館を作りたいってところがあるのさ」であったり。電話の向こう側に、サッポロ堂の豊かな周縁が拡がっていた。
それから、夜の更けた神保町の路地を、馴染みの店まで歩く。歩きながら、まだ今日の市場の話が続く。こんなことを、何度もくり返したはずなのに、懐かしくてならない。私たちが忍耐強いわけがない。ただ、楽しかったのだ。
編集長の田村さんが病に伏して、『彷書月刊』は三百号で終わった。師走の冷たい風が吹いた夜、満身創痍で開いた「終わりの会」に、石原さんは札幌から飛んできた。田村さんは点滴を付けた車椅子で虚ろにしていて、石原さんは「よくやりました」と笑顔で挨拶した。年が明けて、田村さんが逝った。あれから丁度十年が過ぎた。
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